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【虎に翼】三淵嘉子の生い立ちは?NHK朝ドラモデルは連れ子5人の母

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虎に翼 オープニング

2024年の朝ドラ『虎に翼』のモデルである

三淵嘉子(みぶちよしこ)さんの人生についてお伝えします。

私は、子供の頃からの朝ドラ好きですか、

『虎に翼』のヒロインは伊藤沙莉さん。

安定感抜群の演技力の彼女がヒロインですから

朝ドラの王道っぽい朝ドラになるのではないかと期待しています。

さて、『虎に翼』のモデルの三淵嘉子さんとはどのような方なのでしょう。

この記事で、ざっくりと三淵嘉子さんのことがわかるようにお伝えします。

目次

三淵嘉子の家族

三淵嘉子さんは、1914年11月13日、、シンガポールで誕生します。

三淵嘉子さんの読み方は「みぶちよしこ」

彼女の旧姓は武藤嘉子です。

父親の名前は武藤貞雄

香川県丸亀市出身で東大法学部卒です。

台湾銀行で働くエリート銀行員で、台湾銀行シンガポール支店に勤務しました。

母親は、不動産業などを営む裕福な家に育ったノブ。

この二人の第一子として生まれたのが三淵嘉子さんです。

父親の貞雄は、宮武姓でしたが、結婚後にノブの武藤姓を名乗っています。

両親の貞雄とノブは、結婚して、じきにシンガポールに渡り

嘉子さんが生まれ、その後、弟が4人生まれます。

長男、一郎さん。 次男、輝彦さん。 三男、晟造さん。 四男、泰夫さんです。

ちなみに、弟さんたちは、

長男:戦争中、船の沈没で亡くなります。

次男:打ち上げ花火の花火師になります。

三男:詳細不明です。

四男:林野庁や民間企業で働き、退職後も90歳近くまで森林の保護活動をする。

先進的な考えの父の影響

当時のシンガポールは、様々な文化が融合し、多国籍な人々が交流する場所でしたので

嘉子さんは、日本人としてのアイデンティティを持ちながらも、

幼少期から多様な文化に触れる機会に恵まれます。

父、貞雄さんは、自らの仕事を通じて多文化の価値と異文化間の尊重を深く理解する人間。

母ノブさんは、伝統的な日本の価値観と家庭の役割を重んじる人間ではあったものの、

貞男の理念を理解し、両親揃って、

子供たちに、開かれた教育を心掛けます。

こうして、嘉子さんはこの時代には珍しい、伝統と革新の間でバランスの取れた環境で育つことになります。

三淵嘉子さん日本初の弁護士に

父、貞雄さんは、その後、ニューヨーク支店勤務を経たのち

1920年に台湾銀行東京支店勤務のため、日本に帰国。

東京都渋谷区で暮らし始めます。

1920年(6歳)東京府青山師範学校附属小学校に入学
1927年(13歳) 東京女子高等師範学校附属高等女学校(お茶の水女子大学付属)に入学
1932年(18歳) 明治大学専門部女子部法科に入学
1935年(21歳) 明治大学法学部に編入
1938年(24歳) 同校同学部を卒業、    高等文官試験司法科試験に合格
1940年(26歳) 東京 第二東京弁護士会に弁護士登録

こうして、三淵嘉子さんの弁護士人生がはじまります。

ちなみに、この時、日本初の女性弁護士として司法試験に合格したのは三淵嘉子さんの他に

二人いらっしゃいます。

明治大学同窓生の中田正子さん、久米愛さんです。

三淵嘉子さん二度の結婚

三淵嘉子さんは、二度の結婚をされています。

一度目は

1941年、27歳の時。実家の書生で、 明治大学卒の和田芳夫さんと結婚

しかし、戦時中、戦地で発病した和田芳夫さんは、嘉子さんと会うことなく、亡くなってしまいます。

そして、戦後、両親も相次いで亡くなり

嘉子さんは、女で一つで、弟や子供の面倒をみなくてはならなくなります。

二度目の結婚相手は、 1956(昭和31)年8月。42歳のとき。

最高裁調査官であった三淵乾太郎さんと再婚します。

三淵乾太郎さんは、初代最高裁長官三淵忠彦氏の長男で、前妻を病気で亡くし1男3女の子持ちでした。

そして、嘉子さんは、ご自分の子と、合わせて5人の母となります。

三淵嘉子さん日本初の女性裁判官へ

1940年、26歳のときに 弁護士登録をしたあと、

1947年、33歳で 裁判官採用願いを司法省に提出し、司法省民事部勤務に。

戦争前は、女性は裁判官にはなれませんでしたが、敗戦をきっかけに憲法が改正されると

憲法違反になるため「男女平等が宣言された以上、女性を裁判官に採用しないはずはない」と考えた三淵嘉子さん。

すぐには裁判官になれませんでしたが、

1949年(35歳) 東京地裁民事部の判事補として

日本初の女性裁判官に就任します。

その後は、どんどん、日本初の女性の地位を上げていきます。

1952年(38歳 )名古屋地方裁判所で日本初の女性判事に就任。

1972年(58歳) 新潟家庭裁判所で日本初の女性家庭裁判所長に就任

1973年(59歳) 浦和家庭裁判所長に就任

1978年(64歳) 横浜家庭裁判所長に就任

1979年(65歳) 東京 裁判官を退官し、弁護士に戻ります。

こうして、16年もの間、家庭裁判所に関わり、勢力的に転勤も厭わず仕事に邁進した三淵嘉子さんは

家庭裁判所の「育ての母」と呼ばれるまでになるのです。

そして、

1984年(69歳) 1984年5月28日午後8時15分 骨癌のため69歳で亡くなられます。

まとめ

『虎と翼』のヒロインのモデルとなった三淵嘉子さんの生涯についてお伝えしました。

三淵嘉子さんは戦後の混乱期において、女性として、そして法律家として、自らの信念を貫く強さを持ちあわせ

彼女の独立心と強い意志は、父親から受け継いだ価値観と、幼い頃から様々な文化に触れる中で培われた広い視野から来ていたように感じられます。

さらに、この異文化間の経験は、彼女が法曹界においても革新的なアプローチを取る土台となったのではないでしょうか。

三淵嘉子さんの物語は、文化や境界を越えた理解と共感が、どれほど強力な変革を生み出すことができるかを教えてくれる、

時代を超えたメッセージを私たちに残してくれると思います。

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